レイヤーを背景と結合して
「はー。誰がこんなふうに汚したんですか。」
イベントスタッフの腕章をした新入りのボランティアはベンゼンの缶とボロ雑巾を片手に尋ねる。打ちっぱなしのコンクリートの壁には黒く人間の影のようなシミが浮き出ていた。
歴の長いスタッフは変な顔をしながら答えた。
「わからないけど、うちがイベントをすると毎年ここにこうやって人型のシミが浮かび上がるんだよ。会場は現状復帰で返さなきゃいけないし、それで毎年消してんの。」
「このスジ、なんだか涙を流してるみたいで不気味ですね。」
「気持ち悪いことを言わんでくれ。とりあえず、これ消し終わったら雑巾は捨てて缶は撤収場所に返しておいて。」
「了解っす。」
ゴシゴシゴシゴシ。さっきまで会場に居たコスレイヤーたちと同じような決めポーズの形をしたシミを、スタッフはベンゼンに浸されたボロ雑巾で消し始めた。
**
「はい。視線こっちへもらっていいですかー?」
パシャパシャ
「すいません! 次はこっちお願いします!」
パシャパシャパシャ
シャッター音は爽快だ。
普段は地味な私だけども、今お気に入りの衣装に身を包むとまるで変身したかのように、外交的で可憐で美しい理想の自分になれるのだった。コスプレは私にとってまさしく変身であって生まれ変わりであった。
今年もこのコスプレイベントは盛況で、地方からわざわざ足を伸ばしたかいがあったもんだと思う。
「すいません。あの、あっちの壁際で撮らせてもらっていいですか?」
「あっ はい、いいですよ。」
カラミが終わって一休憩置いていた私にまた一人話しかけてくる。
スポーツドリンクをストローで吸いつつ許諾した。
*
「そのカメラ、変な形してますね。」
「ええ」
その人の持っているカメラは変わった形をしていた。新聞社が使うような大きなフラッシュと、それにくっついた手のひらサイズのモニタとキーボード。小さな小さなノートパソコンと一眼レフをくっつけたような感じだ。
「見てください。こう、カメラで取り込んだ画像をリアルタイムでPhotoshopで編集できるんです」
「へぇ~。おっぱいとか大きくできるんですか?」
「え まぁ、しようと思えば」
カメラにくっついた一眼レフにしては大きなモニタには、虹色から色を指定したりいろんなレイヤーを重ねたりする小さなウィンドウがたくさん並んでいる。よくわからない。
殺風景な会場の端、打ちっぱなしのコンクリートの壁の前に私たちは着いた。どうしてこんなところで撮影したいのかなって疑問を持ったけども、背景は灰色のほうが画像加工がしやすのだと言う。たしかに、さっき覗き込んだ画面には、打ちっぱなしのコンクリートが『背景』という名前のレイヤーとして認識されていた。ふ-ん。
私は気合を入れつつ裾や袖など少し服の形を修正する。
「どんなポーズしましょうか。」
「えっと。じゃあ…… OPの最後のポーズでお願いします。」
「はーい。」
「いきますよー。3、2、1!」
パシャリ!
ひときわ大きなフラッシュが私の目の前を真っ白にした。
*
「ふふふ。あとは、『レイヤー』レイヤーを『背景』と結合して保存……と」
私はカメラのモニタを見つつ、フォトショップを操作した。そして、カメラの方向へ目を戻すと……
そこには、さっきまでポーズを撮っていたレイヤーが、コンクリートの壁にまるで絵のように貼り付いていた。
私は壁へ近付き今さっき出来上がった壁画を擦る。その絵の表面には元々のコンクリートの凸凹が浮かびあがっている。ペンキか何かで描かれたとは思えない精巧な絵ではあったけども、たしかにそれはコンクリートの上に直接描かれた絵であった。
「(なに?! 動けない……)」
「だってあなたは絵だからさ」
「(絵…… 絵ってどういうこと??)」
「こういうこと」
私は壁に描かれたアニメキャラの手から顔までを手で擦った。顔と首だ同時に手のひらで触られる感覚は、どんなもんなんだろう。
*
ひとしきり満足した私は、機材を撤収する。壁の絵にされてしまった彼女は泣きだしてしまったが、パソコン上での操作ならCtrl+Zで元に戻せるものの、現実世界に“保存”してしまった操作は、残念ながら戻すことはできない。
「いつまでのその“変身”したお気に入りの格好でいられるんだから満足でしょう?」
「(ひぐぅ…ぐす…… お願い、元に戻して……)」
「あっ でももしかしたら、会場って現状復帰して返さなきゃいけないから、イベント終了後に消されちゃうかもね」
「(…っ!!!!)」
まぁ実際どうなるかは知らん。そのまま絵として保存されるかもしれないし。
さようなら。と一言だけ残して、帰っていく大勢の参加者に紛れて、私は会場を後にした。
*
「これですよこれー。なんなんでしょうねこれ。」
「絵では。」
「いや、誰がいつこんなのを描いたんだっていう。」
「(ちがう…! 私は絵なんかじゃない!!)」
撤収も佳境に入ったとき、会場端の壁に落書きがされているとの連絡がスタッフに入った。しかし実際にみてみるとそれは落書きなんてレベルではなく、会場に居たコスプレイヤーを模した精巧な絵だった。
「どうしましょうかね。」
「会場と確認を取りましたが、現状復帰で、消してくださいとのことです。」
「(ええっ)」
「しゃあないなめんどくさい。えっと、ベンゼン持ってきて。」
「わかりましたー。」
「(…そんな、まって、やめて! お願い気付いて! 消さないで……!!)」
*
ゴシゴシゴシゴシ。
無許可で描かれた精巧な絵は、もう半分も残っていなかった。誰もそれが人間であっただなんて想像もつかなかったのだ。
打ちっぱなしのコンクリートに描かれた絵でも、ベンゼンと雑巾を大量に使えば結構キレイに消えるものだ。表面の小さな凸凹にインクが染み入ってそうなものだったけど。
最初に顔をベンゼンに浸した雑巾で拭ったとき眼のインキがまるで涙のように目の下に伸びて、スタッフをギョッとさせた。しかし、その整った顔も胸も、もう消されてしまって残っていない。
「こんなかんじでいいですかね。」
「上等では。」
壁には濡れたベンゼンの跡しか残っていなかった。絵はキレイに消されてしまって、跡形も無い。
「はい、撤収撤収~。」
突然あらわれた落書きに手こずられたスタッフたちはその場を後にし、各々元の作業場所へ戻っていった。
**
「こんなかんじでいいですかね。」
「うん。上等上等。」
壁には濡れたベンゼンの跡しか残っていなかった。シミはキレイに消されてしまって、跡形も無い。
「じゃあ、自分の作業場所へ戻って。」
「わかりましたー。」
彼女は絵だから動けない。彼女は絵だから気付かれない。そして、彼女は消され続ける。
統合された幻想生活の実体、この普遍的ダイジェストの意味を問うことはもはや不可能になった。夢的行為・詩的行為・意味的行為であったもの、すなわち区別された諸要素を生き生きと結び付けることの上に成り立つ、移動と凝縮の大いなる図式・隠喩と矛盾の偉大なる形態はもう存在しない。消費されたカスは分散し、ただただ均質化された諸要素の永遠の交換があるばかりだ。象徴的機能は失われ、常春の気候の中で“雰囲気”の永遠の組み合わせが繰り返されるのである。